安井曽太郎 《薔薇》

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安井曽太郎 
薔薇
1931(昭和6)年 油彩・カンヴァス 60.5×48.8cm

白い花瓶に生けられた薔薇が力強く描かれています。この白い花瓶は関東大震災の直後、妻の実家の焼け跡から見つかったと言われています。安井は本作について、「白色がきれいだった。その時分僕は白色を好んだ。しぜんその時代の作品に白色調のものが多く、この絵もその一つであった」と述べています。

安井曽太郎 《十和田湖》

06安井曽太郎-十和田湖-1932m

安井曽太郎 
十和田湖
1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス 63.8×79.5cm

1932(昭和7)年7月、安井は国立公園協会の依頼により十和田湖を訪れました。「この邊は7月になっていてもまだ寒い位で、緑も新緑の様な美しさであった」とその印象を述べています。風になびく青々とした木々と紫にかすむ遠くの山の対比は、初夏の清々しい大気を感じさせるかのようです。湖畔にあふれる豊かな自然を勢いよく捉えた画面からは、安井独特のリアリズムが感じられます。それはまるで見るものに、新緑の十和田湖を吹き抜ける風を追体験させるかのようです。

安井曽太郎 《銀化せる鯛》

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安井曽太郎 
銀化せる鯛
1953(昭和28)年 油彩・カンヴァス 65.0×54.0cm

銀色の鯛が真上から堂々とした構図でとらえられています。安井はお正月に知人からもらったこの新鮮な鯛を、別の角度から鮮やかな色彩で描いています。その後、再びこの鯛を描き始めた安井は、5月までアトリエに置き続けました。はじめ赤々としていた鯛は、腐敗してすっかり「干物」になっていたといいます。安井はそのときのことを次のように述べています。「(略)油繪で鯛ははじめてだつたので、仲々豫定通りに進行せず、一日一日とのびて行き、とうとう一月以上かゝり、モデルは干物になつてしまつた。干物になつた鯛は亦美しかつた。立派な銀の彫刻の樣にも見えた」。安井は描き終わった鯛を「何んだか可哀想の樣な氣がし」、家族とともにお皿ごと山の中に埋葬したといいます。

安井曽太郎 《緑の風景》

08安井曽太郎-緑の風景-1955m

安井曽太郎 
緑の風景
1955(昭和30)年 油彩・カンヴァス 32.0×40.0cm

1949(昭和24)年春、安井曽太郎は神奈川県湯河原町に移り住み、庭先に見える城山を繰り返し描きました。安井はこの風景を青年時代のフランス留学で多大な感銘を受けたセザンヌを重ね見たようです。安井自身、次のように述べています。「湯河原の新畫室からは、僕の好きな山がすこしばかり見える。その山の形は、ブリジストン美術館にあるセザンヌのサント・ビクトワール山に一寸似ている。仲々いい山である」(『文藝春秋』昭和30年6月號、1955年)。

晩年の安井は、自らが魅了された城山を幾つも描きました。本作は緑美しい季節に描かれた作品です。大胆な色面と太い輪郭線など「安井様式」とも呼ばれる自らのスタイルによって、その風景がシンプルに力強く描き出されています。

安井曽太郎 《秋の城山(下絵)》

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安井曽太郎 
秋の城山(下絵)
1955(昭和30)年 色鉛筆・紙(パネル張り)25.3×35.4cm

湯河原の自宅兼アトリエから城山を望む《緑の風景》を描いた同年12月初め、安井は風邪をこじらせ気管支性肺炎を患いました。しかし、自らが会長を務める日本美術家連盟の「年末たすけあい展」に出品するため、体調不良を押して《秋の城山》(1955年、京都国立近代美術館蔵)の制作にあたります。それがたたって数日後の12月14日には帰らぬ人となりました。山々が黄に色づいた《秋の城山(下絵)》(1955年)は、絶筆制作の際に手掛けられたものと考えられます。

須田国太郎 《ハッカ》

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須田国太郎
ハッカ
1922(大正11)年 油彩・カンヴァス 38.0×49.0mc

1922(大正11)年8月、須田はスペイン北東部アラゴン州のハカ(Jaca)を訪れました。8月4日の日記には「七時半ハッカへ」、途中「一瞬も目を離せぬ絶景」とあり、ハカは「小さいが西班牙としてはいい部に属する」とも記されています。マドリードを拠点にスペイン各地を巡った須田にとって、この町は魅力的な場所の一つとなったようです。

ハカはロマネスク時代の遺跡が残る町で、中世にサンティアゴ巡礼路の起点として定められました。本作には、街の南にそびえるオロル山とその裾野の荒野が描かれています。画面右下に描かれた建物や抑制された色調は、明暗表現を原理的に探求したキュビスムの絵画を連想させます。しかし、本作では劇的な明暗と色彩やマティエールを対比させて空間を生み出す須田の手法を垣間見ることができます。

須田国太郎 《高貴寺遠望》

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須田国太郎
高貴寺遠望
1933-34(昭和8-9)年頃 油彩・カンヴァス 41.0×53.0cm

1925(大正14)年から8年間、講師として和歌山高等商業学校に通勤した須田国太郎は、その車窓からしばしば葛城山の山並みを眺めていました。須田はその山並みにスペイン風景を重ね見たのかもしれません。「南山城山河内の木津川より伊製は一寸西班牙のカスチリヤの山中を思わせるものがある」と日記に記しています。特に葛城山は後年まで多く描かれ、1933(昭和8)年頃には数多く描かれています。山並みはカンヴァスの矩形にあわせるようにデフォルメされ、平坦な構図にされることで、かえって深い色調による奥行を生み出そうとするかのようです。

須田国太郎 《烈日下の鳳凰堂(平等院)》

12須田国太郎-烈日下の鳳凰堂(平等院)-1936m

須田国太郎
烈日下の鳳凰堂(平等院)
1936(昭和11)年 油彩・カンヴァス 52.0×64.0cm

ある暑い夏の日、須田は京都の雷雨を避けて、宇治へ制作に出かけました。本作はそのときの取材にもとづく作品です。平等院鳳凰堂の中堂が南側廊下のやや高所、現在の六角堂辺りから描かれています。鳳凰堂は夏の烈しい日に晒され、屋根や地面が白く輝くことで、かえって暗い堂内の涼やかな空気との対比が浮かび上がってくるかのようです。

須田国太郎 《鳥と花》

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須田国太郎
鳥と花
1942(昭和17)年頃 油彩・カンヴァス 37.0×45.0cm

須田は、「果たして自己の表現様式を油絵に求めなければならないだけの必然性をもったか」と常に問いながら油彩画の制作を行なっていました。西洋の古典芸術への探求を深く進めつつも、東洋の芸術を意識した須田の制作は、結果として東洋と西洋の枠を脱した独自の絵画を実現させたといえます。

本作では薄く溶いた油絵具を塗り重ねるヴェネツィア派のような深い諧調をたたえた描写により、重厚ながら透明感のある色彩を放っていいます。また、遠近法を捨て去った東洋的な奥行との組み合わせが、須田独特の花鳥画の世界を作り上げています。

須田国太郎 《八幡平(焼山)》

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須田国太郎
八幡平(焼山)
1954(昭和29)年 油彩・カンヴァス 80.0×65.0cm

1954(昭和29)年7月、須田は全日本観光連盟の依頼を受けて、岩手・秋田県にまたがる八幡平へ足を運びました。須田は盛岡から電車、バスを乗り継ぎ登山、雪渓を渡り八幡平に辿り着きます。当初は「どうもこの辺より八幡平を代表する場所なき如し 頗る平凡ながら着手する」(7月16日付日記)と記しています。しかし、翌々日に峠に出て、焼山を見渡す風景を目の当たりにするとその眺めに魅了されます。「毛せん峠に出る 実に美わしい 両側の山並は美事也(略)しゃくなげの白花さきみだれる 焼山にかかる」(7月18日付日記)。その後、京都に戻った須田は、祇園祭にも行かず再びこの作品に取り組みました。深い緑の中に白いシャクナゲが咲き誇り、遠くには雲の湧く焼山があらわれる本作は、東北の緑深い夏山の偉容を見事にあらわしています。

上原美術館