梅原龍三郎 ≪朝暉≫

梅原龍三郎
朝暉
1937(昭和12)年

まだ夜が残る群青色の街並みの向こうに、太陽の光を受けて浮かび上がる桜島のすがた。錦江湾には鈍い光が満ち、遠くの空も仄かに明るんできています。木々の緑はうっすらとした光を受け、街には間もなく朝が訪れるようです。わずかに赤みを帯びながら闇から姿をあらわす桜島の威容は、人々が生活する時間の感覚を超越した大地の息吹が感じられます。

梅原龍三郎(1888-1986年)は20歳のときにパリに留学してルノワールに師事、滞欧中にはイタリアのナポリを訪ねました。そのときのことを「この辺の海は、大気か何かの関係で色が素晴らしく美しく好きだった。だから山手の街など歩きながら、人がいないと踊り出したいくらい、美しいと思った事がある」とその感激を述べています。そして1921(大正10)年、師ルノワールの弔問のため南仏を訪れた際、再びナポリを訪ねました。噴煙を上げるヴェスヴィオ山の近くで偶然出会った日本人に梅原は「此この美感に桜島の景色が似てゐる」と聞き、その言葉が心に深く残りました。そして13年後、梅原は東京でふと耳にした鹿児島の民謡・小原節を聞いて「長閑な南国の景色が夢みられ、矢も楯もたまらず行て見度なり腰を上げた」といいます。それは1934(昭和9)年1月のことでした。東京から汽車で20時間以上揺られて初めての九州の旅、梅原の高揚する気持ちが想像されます。

鹿児島では友人の柳宗悦が紹介した人物の案内により岩崎谷荘に宿泊します。鹿児島の中央に位置する城山の麓にあるこの宿は「錦帆湾(原文ママ)上に幻の如く浮ぶ桜島の全貌を眺める家」であり、梅原が桜島を描くには絶好の場所でした。その座敷からは「城山を右に眺め山の尾の海に消える辺から桜島が空高くすまひ海が帯のように腰を巻いてゐる」という壮大な眺めが広がります。そして、その風景は梅原にナポリでの体験を喚起しました。「此パノラマが誠にベスビオとソレント半島を一眸に見るナポリの景色にも匹敵する風光である。東に面する桜島は朝青く夕は燃える樣に赤い、噴煙は時に濃く時に淡い、朝など濃藍の空と山の間に白く見える事もある。空の色海の色緑の色の光り強く美しき事我國内地此処に匹敵する処を自分は未だに知らない」。その壮麗な大地の美しさを梅原はそう謳っています。以後6年の間、梅原は毎年、鹿児島を訪れては桜島を描きました。桜島に訪れる暁の鈍い暉きを捉えた《朝暉》には、地球が巡る大自然の営みさえ感じられるようです。

二天像

二天像

・年代:平安時代 11~12世紀
・法量:阿形135.3cm/吽形136.2cm
*新収蔵

 

甲冑に身を固め、邪鬼を踏んで立つ二体一対の天部像。二天像は四天王の内の二尊を選び、造像するもので、寺院の中門や本尊の左右に立ち、仏や寺院、仏教徒を魔や災厄から守る守護神です。二天像は左右対称の姿が基本で、本像も腕や足の上下、腰の捻り、一方を開口、他方を固く口を結ぶ阿吽の姿としてこの例に従っていますが、甲冑細部は変えて変化を持たせています。太くがっしりとした体躯はたくましく、細身で颯爽とした鎌倉の天部像とは対照的な「強さ」の表現を見ることができます。

薬師如来像

・年代:平安時代 12世紀
・法量:52.8cm

手に薬壺を持ち、人々を病から救う薬師如来の坐像。構造は、頭体を桧の一材でつくり、前後に割って内部を刳り抜く一木割矧造で、組んだ脚部と両手首先を別につくって寄せていますが、両手首先は江戸時代に補ったものです。
体は華奢、衣文は浅く流麗で、おだやかな顔とあわせ、繊細優美な姿ですが、この姿は平安中期の大仏師・定朝の影響を強く受けたもの。定朝が生んだ和様の仏像は平安貴族から「仏の本様」と讃えられ、多くの仏師に写されて一世を風靡しましたが、本像もその一例です。

藤島武二 《朝熊山より鳥羽の日の出》

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藤島武二
朝熊山より鳥羽の日の出
1930(昭和5)年 油彩・カンヴァス 32.6×45.6cm

本作には、三重県伊勢市にある初日の出の名所、朝熊山から望む日の出の光景が麗しく画面に広がっています。藤島が「日の出る前の空の色の美しさ」に感嘆し、「水平線に出來るだけ近い、新しい赤い太陽」が見事に描きあらわされています。

1920年代後半、皇太后府からの依頼をきっかけに、日の出(旭)を求めて日本各地を巡り、さらには台湾やモンゴルにまで及んで取材を重ねました。本作もそうした探求の旅のなかで生み出された一点です。

安井曽太郎 《十和田湖》

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安井曽太郎 
十和田湖
1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス 63.8×79.5cm

1932(昭和7)年7月、安井は国立公園協会の依頼により十和田湖を訪れました。「この邊は7月になっていてもまだ寒い位で、緑も新緑の様な美しさであった」とその印象を述べています。風になびく青々とした木々と紫にかすむ遠くの山の対比は、初夏の清々しい大気を感じさせるかのようです。湖畔にあふれる豊かな自然を勢いよく捉えた画面からは、安井独特のリアリズムが感じられます。それはまるで見るものに、新緑の十和田湖を吹き抜ける風を追体験させるかのようです。

須田国太郎 《ハッカ》

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須田国太郎
ハッカ
1922(大正11)年 油彩・カンヴァス 38.0×49.0mc

1922(大正11)年8月、須田はスペイン北東部アラゴン州のハカ(Jaca)を訪れました。8月4日の日記には「七時半ハッカへ」、途中「一瞬も目を離せぬ絶景」とあり、ハカは「小さいが西班牙としてはいい部に属する」とも記されています。マドリードを拠点にスペイン各地を巡った須田にとって、この町は魅力的な場所の一つとなったようです。

ハカはロマネスク時代の遺跡が残る町で、中世にサンティアゴ巡礼路の起点として定められました。本作には、街の南にそびえるオロル山とその裾野の荒野が描かれています。画面右下に描かれた建物や抑制された色調は、明暗表現を原理的に探求したキュビスムの絵画を連想させます。しかし、本作では劇的な明暗と色彩やマティエールを対比させて空間を生み出す須田の手法を垣間見ることができます。

須田国太郎 《八幡平(焼山)》

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須田国太郎
八幡平(焼山)
1954(昭和29)年 油彩・カンヴァス 80.0×65.0cm

1954(昭和29)年7月、須田は全日本観光連盟の依頼を受けて、岩手・秋田県にまたがる八幡平へ足を運びました。須田は盛岡から電車、バスを乗り継ぎ登山、雪渓を渡り八幡平に辿り着きます。当初は「どうもこの辺より八幡平を代表する場所なき如し 頗る平凡ながら着手する」(7月16日付日記)と記しています。しかし、翌々日に峠に出て、焼山を見渡す風景を目の当たりにするとその眺めに魅了されます。「毛せん峠に出る 実に美わしい 両側の山並は美事也(略)しゃくなげの白花さきみだれる 焼山にかかる」(7月18日付日記)。その後、京都に戻った須田は、祇園祭にも行かず再びこの作品に取り組みました。深い緑の中に白いシャクナゲが咲き誇り、遠くには雲の湧く焼山があらわれる本作は、東北の緑深い夏山の偉容を見事にあらわしています。

大日如来坐像

大日如来坐像

大日如来坐像

・作者:行順
・年代:鎌倉時代(文永七年・1270年)
・法量:像高 30.9cm

法界定印(坐禅の印)を結ぶ胎蔵界大日如来の坐像。大日如来には胎蔵界大日如来と、忍者のような智拳印を結ぶ金剛界大日如来の二種がありますが、うち胎蔵界像は比較的遺例が少なく、貴重な作例です。

本像の構造は、頭体幹部(頭と体の主要部分)をヒノキの一材で彫出し、耳の後ろを通る線で前後に割り、内部を刳り抜く一木割矧造で、瞳には水晶製の玉眼を嵌入しています。本像は像内墨書から、文永七年(1270)、静快を大願主として、佛師行順が制作した仏像であることが分かります。鎌倉時代に遡る仏像で、制作年代と作者、制作事情が判明する仏像は稀で、このような仏像は墨書を持たない多くの仏像の年代を考える上での参考となるため、基準作と呼ばれます。本像は小像ですが、13世紀後半の仏像を研究する際の基準作として、学術的に貴重な仏像です。

菩薩立像

菩薩立像

菩薩立像

・年代:中国・宋時代(13世紀か)
・法量:総高103.1cm

頭頂の髻から台座までを一材で造り、部分的に塑土を盛り上げて成型、彩色を施した菩薩立像。腰を大きく右に捻った弓形の体や、持った供物を支える盆を右方に差し出す姿から、もとは中尊の左右に配した脇侍菩薩像の一体で、本尊に対して供物を捧げる姿であったと思われます。

大づかみな造形は中国の石窟寺院に見られる石像に近く、台座を含む像全体を一木で彫出し、塑土を用いて細部を仕上げる手法、面貌や動きのある体勢は中国で宋時代に制作された仏像の特徴を示しています。体に比して頭部や手が過大な姿や、写実を離れて形式化した造形から、南宋(1127~1279)の時代に制作された像の可能性が高いでしょう。

十一面観世音菩薩立像

十一面観世音菩薩立像

十一面観世音菩薩立像

十一面観世音菩薩立像

・年代:平安時代(10世紀)
・法量:像高52.2cm
・指定:重要美術品

十一面観音は十の頭上面を持つ観音で、この姿はあらゆる方角を見渡して救済を行う、観音の救済力の表現とされています。

本像は頭部から台座蓮肉の一部までをサクラと思われる広葉樹の一材から彫出した一木造の立像で、頭上面と右肩以下の右腕、左の肘から先は別に造って取り付けています。像を蓮肉まで含めて一材でつくり、内刳(内部を刳り抜くこと)を行わない技法、装身具を彫出する手法は平安時代前期に見られる特徴であり、太い鼻梁とつり上った瞳が生む強い表情、奥行のある頭部、両胸の下をC字型に刳る表現、下半身に着用した裙(巻きスカート)に見られる翻波式衣文(大きい襞の間に小さな襞をあらわす表現)も古様です。一方で本像は全体として穏やかな作風を示しており、九世紀の仏像に見られる厳しい表現が、温和な和様へと向かいつつある時期、十世紀初めの仏像と考えられます。