中阿含経巻第五十一

中阿含経巻五十一

中阿含経巻第五十一

・作者:不詳
・年代:奈良時代(8世紀)

国家事業としての写経が盛んに行われた奈良時代の写経で、この時代の写経は、仏教文化が開花した聖武天皇の治世の元号から、天平写経と呼ばれています。本経の謹厳な書風は天平写経の特徴を良く示しており、細身でしなやかな文字は、天平写経が模範とした中国・初唐の書風を写すものです。

本経には、江戸時代中期に古筆見として知られた神田道伴による寛保二年(1742年)の折紙が付属しており、筆者を「吉備大臣(吉備真備、695~775年)」としています。残念ながらこの鑑定結果は、現在では事実とは認められませんが、本経の書体は、吉備真備在世中の八世紀中頃のものとして良いでしょう。

紫紙金字華厳経断簡

紫紙金字華厳経断簡

紫紙金字華厳経断簡

・年代:奈良時代(8世紀)
・法量:縦26.5㎝ 横49.9㎝

ムラサキソウで染めた紫紙に金泥で八十巻本の華厳経を書写した古写経で、本経はその一紙分の断簡です。奈良時代の聖武天皇は、741年に国分寺建立の詔を発布し、国ごとに国分寺と国分寺を建立、国分寺には金光明最勝王経、国分尼寺には法華経をそれぞれ十組ずつ書写させ、安置させたことが知られています。その後、聖武天皇は大仏を造立し、諸国の国分寺を統べる総国分寺として東大寺を建立しましたが、本経はこの時、大仏に奉納されたものと考えられます。

写経の最高峰に位置づけられる天平写経の中にあって、本経の一点一画を疎かにしない謹厳端正な書風は、天皇の勅願による官立写経所における写経事業の高い技術と質を感じさせる名品です。

金光明最勝王経註釈断簡

金光明最勝王経注釈断簡(飯室切)

金光明最勝王経註釈断簡

・年代:平安時代前期(9世紀)
・法量:縦27.3㎝ 横51.6㎝

「金光明最勝王経注釈」は、東大寺の明一(728~798)が撰した文献で、鎮護国家の力があるとして重んじられた金光明最勝王経の解説書です。本品はこれを平安時代前期に書写したもので、本文を墨字で書写した上、白字で読みや簡単な解説を書き込んでいます。本経はもと比叡山横川の飯室別所に長く伝えられたところから、飯室切の名で知られています。本品は長い歴史の中で、三筆の一人である嵯峨天皇が書写したものに、空海が白字を付したと伝えられ、珍重されてきました。残念ながら現在、この説は否定されていますが、本経の大振りで力強い筆跡は平安時代前期を代表する書として高く評価されています。

フリガナとして付された白字は漢字の一部を崩して用いたものであり、日本固有の仮名文字が成立する過程を示すものとして、国語学上極めて貴重な資料となっています。

紺紙金銀字交書阿毘達磨倶舎論巻二十六

紺紙金銀字交書阿毘達磨倶舎論巻二十六(中尊寺経)

紺紙金銀字交書阿毘達磨倶舎論巻二十六

・年代:平安時代後期(12世紀)
・法量:縦25.3㎝ 横874.0㎝
・指定:重要美術品

平安時代後期に東北地方一帯を支配した奥州藤原氏の祖、藤原清衡が永久五年(1117年)2月頃に発願、天治三年(1126)3月に完成した経巻で、岩手県平泉の中尊寺に伝来したことから中尊寺経と呼ばれています。紺紙に金粉・銀粉を膠で溶いた金泥・銀泥を交互に用いて書写した装飾経で、見返しには霊鷲山で釈迦如来が、菩薩や仏弟子たちに説法する様が繊細な筆致で描かれています。本経は代表的な経典・仏典を集成した一切経の一巻として制作されたもので、当初は5400巻あったと考えられますが、現在は中尊寺に15巻、高野山金剛峰寺に4296巻(いすれも国宝)伝来するほか、およそ4600巻が現存しているとされています。

紺紙金字金剛三昧経巻上(神護寺経)

紺紙金字金剛三昧経巻上(神護寺経)

紺紙金字金剛三昧経巻上(神護寺経)

・年代:平安時代後期(12世紀)
・法量:縦26.1㎝ 横779.9㎝

鳥羽天皇(1103~1156年)が発願して制作された一切経で、後白河法皇(1127~1192)が神護寺に奉納、長くこの寺に伝えられたことから神護寺経と呼ばれる経典。巻首内題下に「神護寺経」の朱印が押されています。主要な経典や仏教書を集成したものを一切経と言い、平安時代には一切経を紺紙金字経で揃える例が盛行しますが、本経はその代表的な作例で、もとは5400巻あったと考えられますが、現在、神護寺に2317巻が現存、重要文化財に指定されているほか、多くが寺外に流出し、各地の美術館・博物館、寺院、個人に分蔵されています。紺紙に金字で書写された経文は、夜空に輝く星のように美しく魅力的です。また、表紙見返しには、釈尊の浄土とされる鷲の姿をした霊鷲山を背景に坐す釈迦如来の説法を、二人の仏弟子と菩薩が聴聞する場面が金泥・銀泥を用いて描かれています。

上原美術館