須田国太郎 《烈日下の鳳凰堂(平等院)》

12須田国太郎-烈日下の鳳凰堂(平等院)-1936m

須田国太郎
烈日下の鳳凰堂(平等院)
1936(昭和11)年 油彩・カンヴァス 52.0×64.0cm

ある暑い夏の日、須田は京都の雷雨を避けて、宇治へ制作に出かけました。本作はそのときの取材にもとづく作品です。平等院鳳凰堂の中堂が南側廊下のやや高所、現在の六角堂辺りから描かれています。鳳凰堂は夏の烈しい日に晒され、屋根や地面が白く輝くことで、かえって暗い堂内の涼やかな空気との対比が浮かび上がってくるかのようです。

須田国太郎 《鳥と花》

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須田国太郎
鳥と花
1942(昭和17)年頃 油彩・カンヴァス 37.0×45.0cm

須田は、「果たして自己の表現様式を油絵に求めなければならないだけの必然性をもったか」と常に問いながら油彩画の制作を行なっていました。西洋の古典芸術への探求を深く進めつつも、東洋の芸術を意識した須田の制作は、結果として東洋と西洋の枠を脱した独自の絵画を実現させたといえます。

本作では薄く溶いた油絵具を塗り重ねるヴェネツィア派のような深い諧調をたたえた描写により、重厚ながら透明感のある色彩を放っていいます。また、遠近法を捨て去った東洋的な奥行との組み合わせが、須田独特の花鳥画の世界を作り上げています。

須田国太郎 《八幡平(焼山)》

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須田国太郎
八幡平(焼山)
1954(昭和29)年 油彩・カンヴァス 80.0×65.0cm

1954(昭和29)年7月、須田は全日本観光連盟の依頼を受けて、岩手・秋田県にまたがる八幡平へ足を運びました。須田は盛岡から電車、バスを乗り継ぎ登山、雪渓を渡り八幡平に辿り着きます。当初は「どうもこの辺より八幡平を代表する場所なき如し 頗る平凡ながら着手する」(7月16日付日記)と記しています。しかし、翌々日に峠に出て、焼山を見渡す風景を目の当たりにするとその眺めに魅了されます。「毛せん峠に出る 実に美わしい 両側の山並は美事也(略)しゃくなげの白花さきみだれる 焼山にかかる」(7月18日付日記)。その後、京都に戻った須田は、祇園祭にも行かず再びこの作品に取り組みました。深い緑の中に白いシャクナゲが咲き誇り、遠くには雲の湧く焼山があらわれる本作は、東北の緑深い夏山の偉容を見事にあらわしています。

須田国太郎 《下田》

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須田国太郎
下田
1956(昭和31)年頃 コンテ・紙 27.0×36.5cm

1954(昭和29)年6月、伊豆風景を描くために招かれた須田国太郎は、一週間の写生旅行をしました。韮山、古奈、下田、石廊崎、松崎、三島などに立ち寄り、各所でスケッチをしながら伊豆を廻ったようです。日記には、「バスで下田へ向かう 割合平凡 天城山横断は流石によし 市中あるく なまこ壁眼につく ここでかくつもりにする」と記されています。

また、数年後には下田港から武山(寝姿山)を望むスケッチ《下田》を描いています。前景に堤防が見え、なまこ壁が並ぶ街の手前には多くの船がひしめいており、当時造船業で栄えた下田の賑わいが垣間見えます。ここでは手前にみえる船よりも、遠景にある2階建てのなまこ壁の倉庫をつぶさに描いており、旅行中須田がよく眼についたというなまこ壁への関心があらわれています。

岸田劉生 《麗子微笑像》

16岸田劉生-麗子微笑像-1921m

岸田劉生
麗子微笑像
1921(大正10)年 水彩・紙 41.8×34.0cm

赤と黄色が鮮やかな絞りの着物を着た劉生の娘・麗子が描かれています。頭には中国のかんざしをつけて、神秘的な笑みを湛えるようすには、どこか不思議な異国情緒が感じられます。

劉生は日記に「今日は麗子が早びけで早く帰つたので、(中略)、その上又麗子の例のメリンスの赤と黄のシボリの美しいきものを着せて頭に先日の支那のかんざしをつけて、笑つてゐる半身像をはじめて、筆をおく」(1921年9月30日)と記しています。メリンスとはメリノ羊の毛で作った布で、細かな染付ができる数少ない毛織物として重宝されていました。劉生はこの着物を着た麗子をしばしば描きましたが、本作では絞り染め特有の布にできる凹凸を水彩画で表現するため、色の濃淡に注意を払っているようすがうかがえます。

【没後90年記念 岸田劉生展】に出品
東京ステーションギャラリーの『没後90年記念 岸田劉生展』(8/31~10/20)に出品しました。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

 

岸田劉生 《静物》

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岸田劉生
静物
1921(大正10)年 油彩・カンヴァス 38.0×45.5cm

机の上に4つの果物と一つの器が置かれています。それらのモティーフはまるで人物が佇むかのように不思議な存在感を漂わせています。劉生自らのある静物画について次のような詩を残しています。「君は其處に丁度人のない海岸の砂原に/生れて間もない赤子が二人、默つて靜かに遊んでゐる姿を思はないか/その靜かさ美しさを思はないか/この二つの赤子の運命を思はないか」。一見、机の上に無造作に並べられた本作のモティーフにも、劉生が見出した「実在の神秘」が隠されているかのようです。

牛島憲之 《雨明かる》

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牛島憲之
雨明かる
1982(昭和57)年 油彩・カンヴァス 45.5×91.0cm

伊豆・下田は牛島がよく訪れた土地の一つです。この作品は下田の白浜にある板戸港での写生をもとに制作されました。水平線が曖昧な画面には淡い光があふれ、穏やかな自然とそこに生きる人間の営みが、温和な色彩で描かれています。日が差し込む雨上がりの海にはゆったりと小船が浮かび、堤防や岩肌は静かに輝きを放ちます。画面中央の堤防には、釣人たちが座って海面に糸を垂らしています。その中に一人だけ、海を眺めるような人物が佇んでいます。牛島はたびたび作品に一種の自画像ともいえる点景人物を描き込みました。ここでも自身を投影しているのでしょうか。この人物の存在は幻想的な自然描写と相まって、見るものを牛島独自の絵画世界へとひきこむかのようです。

牛島の作品はじっくりと取り組んだ写生をもとに、アトリエで時間をかけて再構築されたといいます。そうして生み出された独自の形態と、丹念に塗り込めた淡い色彩からは、静謐な趣が漂います。本作でも、やわらかい光に包まれた港の光景が、簡略化された形態描写によって詩情豊かにあらわされています。

 

 

 

 

川合玉堂 《漁村夕照》

04河合玉堂-漁村夕照1935s

川合玉堂
漁村夕照
昭和10(1935)年頃 絹本彩色・額装 65.0×91.0cm

夕日が降り注ぐ海に幾艘も浮かぶ舟。帆を下ろしたそれらの舟は漁を終えて帰ってきたところでしょうか、夕暮れの大気の広がりが海辺の村を包み、情緒あふれる風景が描き出されています。本作は、中国で伝統的に画題となってきた「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」(中国・湖南省の瀟水と湘江の合流する辺りの景勝。山水画を通して日本にも広まった)の一つ「漁村夕照」を画題としています。手前の濃墨で描かれた松林は、絹本独特の柔らかな滲みによって風景に溶け込んでいます。夕暮れに染まる山々や遠景に柔らかく広がる暈しは玉堂が若い頃に学んだ円山四条派の影響でしょうか、手前の松林から斜め奥へと続く構図は、宋の画家・馬遠に学んだ玉堂の特徴の一つであり、大きく取られた余白は雄大な自然の広がりを感じさせます。

松林桂月 《白萩》

06松林桂月-白萩1953s

松林桂月 
白萩
1953(昭和28)年頃 絹本墨画淡彩、額装 47.0×56.0cm

白く小ぶりな花をつけた萩が墨の濃淡を生かして描かれています。その前には、淡い色彩によるススキが秋風に揺れるようにすっととらえられています。どちらも秋の風物として、和歌などにもたびたび詠われてきました。

作品右下に記された漢詩には「流水冷冷何処岸 夕陽浴浴幾家村」とあり、秋の夕暮れ時、村の家々に夕日が降り注ぐ情景が目に浮かぶようです。そこには、白い花と故郷山口の萩を重ねて、東京で制作に打ち込む桂月の心情が込められているのかもしれません。

 

 

松林桂月 《牡丹》

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松林桂月 
牡丹
1955(昭和30)年頃 絹本墨画淡彩・額装 49.0×56.0cm

はじめに塗った墨が乾く前に別の色や墨を重ねる「たらし込み」の技法で、雨に洗われた牡丹の清らかな姿が描き出されています。胡粉(ごふん)を花弁にのみ少量たらし込むことで花弁の重なりが省略され、雨に潤う牡丹のようすを巧みに捉えています。南画を学んだ桂月には珍しく線描を用いずに描いているため、伸びやかでやわらかな表現が一層際立ち、淡い墨で彩られた静かな情景のなかに優美な趣を秘めています。

上原美術館