安井曽太郎≪焼岳(上高地晩秋図)≫

安井曽太郎
焼岳(上高地晩秋図)
1941(昭和16)年 油彩・カンヴァス(パネル張り) 39.0×50.7cm

焼岳は長野県と岐阜県にまたがる活火山で、その周囲には北アルプスの玄関口・上高地が広がります。焼岳は約2,300年前に最後のマグマ噴火を起こし、今も噴煙を上げています。大正4(1915)年には水蒸気爆発によって麓の梓川(あづさがわ)に土石流が流れ込んで、大正池が生まれました。木々が沈む清らかな水面には、季節によって美しく色彩を変える焼岳が映ります。
昭和13(1938)年、安井曽太郎は前年に患った中耳炎の静養を兼ねて上高地に滞在、2年後にもこの地を訪れて本作を描きました。「燒岳は終始噴煙していて仲々面白い山で、見所によるとちょっと凄い山に見えた」、「お手本の自然は少しもごたごたせず、全景が一つになって見えた。自然の調子にはくるいがないのだ」と安井は述べています。本作では暗い青であらわされた大正池が、立ち枯れた白樺のリズムによって明るい遠景へと続き、山を染める黄葉と、所々露わになった岩肌が画面を装飾的に彩ることで、秋に燃える焼岳の姿が美しく描き出されています。

梅原龍三郎 ≪朝暉≫

梅原龍三郎
朝暉
1937(昭和12)年

まだ夜が残る群青色の街並みの向こうに、太陽の光を受けて浮かび上がる桜島のすがた。錦江湾には鈍い光が満ち、遠くの空も仄かに明るんできています。木々の緑はうっすらとした光を受け、街には間もなく朝が訪れるようです。わずかに赤みを帯びながら闇から姿をあらわす桜島の威容は、人々が生活する時間の感覚を超越した大地の息吹が感じられます。

梅原龍三郎(1888-1986年)は20歳のときにパリに留学してルノワールに師事、滞欧中にはイタリアのナポリを訪ねました。そのときのことを「この辺の海は、大気か何かの関係で色が素晴らしく美しく好きだった。だから山手の街など歩きながら、人がいないと踊り出したいくらい、美しいと思った事がある」とその感激を述べています。そして1921(大正10)年、師ルノワールの弔問のため南仏を訪れた際、再びナポリを訪ねました。噴煙を上げるヴェスヴィオ山の近くで偶然出会った日本人に梅原は「此この美感に桜島の景色が似てゐる」と聞き、その言葉が心に深く残りました。そして13年後、梅原は東京でふと耳にした鹿児島の民謡・小原節を聞いて「長閑な南国の景色が夢みられ、矢も楯もたまらず行て見度なり腰を上げた」といいます。それは1934(昭和9)年1月のことでした。東京から汽車で20時間以上揺られて初めての九州の旅、梅原の高揚する気持ちが想像されます。

鹿児島では友人の柳宗悦が紹介した人物の案内により岩崎谷荘に宿泊します。鹿児島の中央に位置する城山の麓にあるこの宿は「錦帆湾(原文ママ)上に幻の如く浮ぶ桜島の全貌を眺める家」であり、梅原が桜島を描くには絶好の場所でした。その座敷からは「城山を右に眺め山の尾の海に消える辺から桜島が空高くすまひ海が帯のように腰を巻いてゐる」という壮大な眺めが広がります。そして、その風景は梅原にナポリでの体験を喚起しました。「此パノラマが誠にベスビオとソレント半島を一眸に見るナポリの景色にも匹敵する風光である。東に面する桜島は朝青く夕は燃える樣に赤い、噴煙は時に濃く時に淡い、朝など濃藍の空と山の間に白く見える事もある。空の色海の色緑の色の光り強く美しき事我國内地此処に匹敵する処を自分は未だに知らない」。その壮麗な大地の美しさを梅原はそう謳っています。以後6年の間、梅原は毎年、鹿児島を訪れては桜島を描きました。桜島に訪れる暁の鈍い暉きを捉えた《朝暉》には、地球が巡る大自然の営みさえ感じられるようです。

岸田劉生 《村娘之図》

岸田劉生
村娘之図
1918(大正7)年 鉛筆・紙 34.4×22.6cm

小さなつわぶきの花を手にした少女は、劉生の娘・麗子の友達の於松(おまつ)です。画面右上には、「一九一八年十一月廿六日」と書かれています。着物の上に羽織を着た於松の姿からは秋の冷たい空気が感じられるようです。
麗子より3歳年上の於松の姿を劉生はこの年から3年間、たびたび描きました。劉生は於松を描いた作品について、「この画に描こうとしたものはいろいろあって一口には云えませんが鄙びた田舎娘の持つ或る美です」と述べています。「花を持つ手は素朴に、キョトンと前方を見て無心でいるような感じ」を取ったという構図には、デューラーやファン・エイクのような美の深さがあるとしています。また、「着物や羽織も実に美しいもの」で、「それが如何にも田舎風な模様はその色が退めているのと相待って不思議な美を持っている」と述べています。

黒田清輝 《風景》

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黒田清輝
風景
制作年未詳 油彩・カンヴァス 54.5×38.0cm

木立の中に鮮やかな緑が広がる風景は新緑の時期でしょうか、草むらにはピンクや黄色の花が所々に咲いています。

黒田は木々を断ち切るような構図によるこうした風景画をしばしば描いています。筆の跡が重なるような緑の広がりは、「外光派」と呼ばれた黒田独特の光の感覚に満ち溢れています。

藤島武二 《朝熊山より鳥羽の日の出》

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藤島武二
朝熊山より鳥羽の日の出
1930(昭和5)年 油彩・カンヴァス 32.6×45.6cm

本作には、三重県伊勢市にある初日の出の名所、朝熊山から望む日の出の光景が麗しく画面に広がっています。藤島が「日の出る前の空の色の美しさ」に感嘆し、「水平線に出來るだけ近い、新しい赤い太陽」が見事に描きあらわされています。

1920年代後半、皇太后府からの依頼をきっかけに、日の出(旭)を求めて日本各地を巡り、さらには台湾やモンゴルにまで及んで取材を重ねました。本作もそうした探求の旅のなかで生み出された一点です。

藤島武二 《龍眼肉静物(茘枝)》

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藤島武二
龍眼肉静物(茘枝)
1931(昭和6)年頃 油彩・板 15.0×22.6cm

本作には、主に中国や台湾に生息するライチの実が描かれています。現在は日本でも流通しているライチですが、鮮度が落ちやすいため、当時は入手が困難だったといいます。枝ごと採ったライチの実は、鮮やかな赤色をおびています。異国情緒溢れる果実に関心を寄せた藤島の視線を、ここに垣間見ることができます。

安井曽太郎 《静物》

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安井曽太郎 
静物
1912(明治45/大正元)年頃 油彩・カンヴァス(板張り) 46.1×54.9cm

1907(明治40)年、安井はフランスに渡り私立の画塾アカデミー・ジュリアンに入学すると、ジャン=ポール・ローランスに師事しました。本作は3年近く通った画塾を辞し、自由な制作を試み始めた24歳頃に描かれました。

砂糖壺に反射する4つの小さな白い四角は窓の光でしょうか。薄暗い部屋の様子からは、自らの芸術を生み出そうと模索する画学生の生活がうかがえるようです。

安井曽太郎 《薔薇》

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安井曽太郎 
薔薇
1931(昭和6)年 油彩・カンヴァス 60.5×48.8cm

白い花瓶に生けられた薔薇が力強く描かれています。この白い花瓶は関東大震災の直後、妻の実家の焼け跡から見つかったと言われています。安井は本作について、「白色がきれいだった。その時分僕は白色を好んだ。しぜんその時代の作品に白色調のものが多く、この絵もその一つであった」と述べています。

安井曽太郎 《十和田湖》

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安井曽太郎 
十和田湖
1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス 63.8×79.5cm

1932(昭和7)年7月、安井は国立公園協会の依頼により十和田湖を訪れました。「この邊は7月になっていてもまだ寒い位で、緑も新緑の様な美しさであった」とその印象を述べています。風になびく青々とした木々と紫にかすむ遠くの山の対比は、初夏の清々しい大気を感じさせるかのようです。湖畔にあふれる豊かな自然を勢いよく捉えた画面からは、安井独特のリアリズムが感じられます。それはまるで見るものに、新緑の十和田湖を吹き抜ける風を追体験させるかのようです。

安井曽太郎 《銀化せる鯛》

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安井曽太郎 
銀化せる鯛
1953(昭和28)年 油彩・カンヴァス 65.0×54.0cm

銀色の鯛が真上から堂々とした構図でとらえられています。安井はお正月に知人からもらったこの新鮮な鯛を、別の角度から鮮やかな色彩で描いています。その後、再びこの鯛を描き始めた安井は、5月までアトリエに置き続けました。はじめ赤々としていた鯛は、腐敗してすっかり「干物」になっていたといいます。安井はそのときのことを次のように述べています。「(略)油繪で鯛ははじめてだつたので、仲々豫定通りに進行せず、一日一日とのびて行き、とうとう一月以上かゝり、モデルは干物になつてしまつた。干物になつた鯛は亦美しかつた。立派な銀の彫刻の樣にも見えた」。安井は描き終わった鯛を「何んだか可哀想の樣な氣がし」、家族とともにお皿ごと山の中に埋葬したといいます。