牛島憲之≪夕月富士≫

動画による作品解説

牛島憲之
夕月富士
1987(昭和62)年 油彩・カンヴァス 53.3×91.0cm

山中湖から見た富士山の夕暮れのひとときです。山上には月が昇り、湖をゆく一艘の小さな船は雄大な自然に暮らす人々の気配を感じさせます。
本作は牛島憲之が87歳のときに描いた作品です。それまで多くの画家が描いた「富士山だけは描くまい」と思っていた牛島ですが、別荘のある伊豆への往復の際に富士山を見て、その心は次第に変化していきます。「その美しさがだんだんと私の心の中に蓄積されていき、あるとき突然限界点に達したのでしょう、急に描きたくなったのです。私には私の富士があるはずだ、と。八五の時でした」。火山が生み出した富士の美しい姿は、人間の一生を超えて、人々の心に悠然と聳(そび)え立つかのようです。

 

 

 

 

須田国太郎≪農村展望(小諸風景)

動画による作品解説

須田国太郎
農村展望(小諸風景)
1934(昭和9)年 油彩・カンヴァス 59.0×90.0cm

みはるかす山々の向こうに夏の雲が湧き立ち、眼下には山影が広がります。影には緑や赤など色が重層的に塗られ、これらの色彩に気づくと山々が夏の光にいっそう輝くようです。
本作は須田国太郎が1934(昭和9)年夏、長野県小諸附近を訪ねたときに描かれました。小諸は北東に浅間山を抱える標高約600メートル以上の高地で、主に浅間山からの火砕流台地と、千曲川などによる洪積台地からなっています。火山と河川が長い年月をかけて生み出した雄大な風景を、須田はひとときの夏の光が織り成す明暗の対比で捉えています。遠くの山に見える家並みは、大地の中に生きる人々の生活を浮かび上がらせるかのようです。

安井曽太郎≪焼岳(上高地晩秋図)≫

安井曽太郎
焼岳(上高地晩秋図)
1941(昭和16)年 油彩・カンヴァス(パネル張り) 39.0×50.7cm

焼岳は長野県と岐阜県にまたがる活火山で、その周囲には北アルプスの玄関口・上高地が広がります。焼岳は約2,300年前に最後のマグマ噴火を起こし、今も噴煙を上げています。大正4(1915)年には水蒸気爆発によって麓の梓川(あづさがわ)に土石流が流れ込んで、大正池が生まれました。木々が沈む清らかな水面には、季節によって美しく色彩を変える焼岳が映ります。
昭和13(1938)年、安井曽太郎は前年に患った中耳炎の静養を兼ねて上高地に滞在、2年後にもこの地を訪れて本作を描きました。「燒岳は終始噴煙していて仲々面白い山で、見所によるとちょっと凄い山に見えた」、「お手本の自然は少しもごたごたせず、全景が一つになって見えた。自然の調子にはくるいがないのだ」と安井は述べています。本作では暗い青であらわされた大正池が、立ち枯れた白樺のリズムによって明るい遠景へと続き、山を染める黄葉と、所々露わになった岩肌が画面を装飾的に彩ることで、秋に燃える焼岳の姿が美しく描き出されています。

梅原龍三郎 ≪朝暉≫

動画による作品解説

梅原龍三郎
朝暉
1937(昭和12)年

まだ夜が残る群青色の街並みの向こうに、太陽の光を受けて浮かび上がる桜島のすがた。錦江湾には鈍い光が満ち、遠くの空も仄かに明るんできています。木々の緑はうっすらとした光を受け、街には間もなく朝が訪れるようです。わずかに赤みを帯びながら闇から姿をあらわす桜島の威容は、人々が生活する時間の感覚を超越した大地の息吹が感じられます。

梅原龍三郎(1888-1986年)は20歳のときにパリに留学してルノワールに師事、滞欧中にはイタリアのナポリを訪ねました。そのときのことを「この辺の海は、大気か何かの関係で色が素晴らしく美しく好きだった。だから山手の街など歩きながら、人がいないと踊り出したいくらい、美しいと思った事がある」とその感激を述べています。そして1921(大正10)年、師ルノワールの弔問のため南仏を訪れた際、再びナポリを訪ねました。噴煙を上げるヴェスヴィオ山の近くで偶然出会った日本人に梅原は「此この美感に桜島の景色が似てゐる」と聞き、その言葉が心に深く残りました。そして13年後、梅原は東京でふと耳にした鹿児島の民謡・小原節を聞いて「長閑な南国の景色が夢みられ、矢も楯もたまらず行て見度なり腰を上げた」といいます。それは1934(昭和9)年1月のことでした。東京から汽車で20時間以上揺られて初めての九州の旅、梅原の高揚する気持ちが想像されます。

鹿児島では友人の柳宗悦が紹介した人物の案内により岩崎谷荘に宿泊します。鹿児島の中央に位置する城山の麓にあるこの宿は「錦帆湾(原文ママ)上に幻の如く浮ぶ桜島の全貌を眺める家」であり、梅原が桜島を描くには絶好の場所でした。その座敷からは「城山を右に眺め山の尾の海に消える辺から桜島が空高くすまひ海が帯のように腰を巻いてゐる」という壮大な眺めが広がります。そして、その風景は梅原にナポリでの体験を喚起しました。「此パノラマが誠にベスビオとソレント半島を一眸に見るナポリの景色にも匹敵する風光である。東に面する桜島は朝青く夕は燃える樣に赤い、噴煙は時に濃く時に淡い、朝など濃藍の空と山の間に白く見える事もある。空の色海の色緑の色の光り強く美しき事我國内地此処に匹敵する処を自分は未だに知らない」。その壮麗な大地の美しさを梅原はそう謳っています。以後6年の間、梅原は毎年、鹿児島を訪れては桜島を描きました。桜島に訪れる暁の鈍い暉きを捉えた《朝暉》には、地球が巡る大自然の営みさえ感じられるようです。

岸田劉生 《村娘之図》

岸田劉生
村娘之図
1918(大正7)年 鉛筆・紙 34.4×22.6cm

小さなつわぶきの花を手にした少女は、劉生の娘・麗子の友達の於松(おまつ)です。画面右上には、「一九一八年十一月廿六日」と書かれています。着物の上に羽織を着た於松の姿からは秋の冷たい空気が感じられるようです。
麗子より3歳年上の於松の姿を劉生はこの年から3年間、たびたび描きました。劉生は於松を描いた作品について、「この画に描こうとしたものはいろいろあって一口には云えませんが鄙びた田舎娘の持つ或る美です」と述べています。「花を持つ手は素朴に、キョトンと前方を見て無心でいるような感じ」を取ったという構図には、デューラーやファン・エイクのような美の深さがあるとしています。また、「着物や羽織も実に美しいもの」で、「それが如何にも田舎風な模様はその色が退めているのと相待って不思議な美を持っている」と述べています。

黒田清輝 《風景》

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黒田清輝
風景
制作年未詳 油彩・カンヴァス 54.5×38.0cm

木立の中に鮮やかな緑が広がる風景は新緑の時期でしょうか、草むらにはピンクや黄色の花が所々に咲いています。

黒田は木々を断ち切るような構図によるこうした風景画をしばしば描いています。筆の跡が重なるような緑の広がりは、「外光派」と呼ばれた黒田独特の光の感覚に満ち溢れています。

藤島武二 《朝熊山より鳥羽の日の出》

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藤島武二
朝熊山より鳥羽の日の出
1930(昭和5)年 油彩・カンヴァス 32.6×45.6cm

本作には、三重県伊勢市にある初日の出の名所、朝熊山から望む日の出の光景が麗しく画面に広がっています。藤島が「日の出る前の空の色の美しさ」に感嘆し、「水平線に出來るだけ近い、新しい赤い太陽」が見事に描きあらわされています。

1920年代後半、皇太后府からの依頼をきっかけに、日の出(旭)を求めて日本各地を巡り、さらには台湾やモンゴルにまで及んで取材を重ねました。本作もそうした探求の旅のなかで生み出された一点です。

藤島武二 《龍眼肉静物(茘枝)》

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藤島武二
龍眼肉静物(茘枝)
1931(昭和6)年頃 油彩・板 15.0×22.6cm

本作には、主に中国や台湾に生息するライチの実が描かれています。現在は日本でも流通しているライチですが、鮮度が落ちやすいため、当時は入手が困難だったといいます。枝ごと採ったライチの実は、鮮やかな赤色をおびています。異国情緒溢れる果実に関心を寄せた藤島の視線を、ここに垣間見ることができます。

安井曽太郎 《静物》

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安井曽太郎 
静物
1912(明治45/大正元)年頃 油彩・カンヴァス(板張り) 46.1×54.9cm

1907(明治40)年、安井はフランスに渡り私立の画塾アカデミー・ジュリアンに入学すると、ジャン=ポール・ローランスに師事しました。本作は3年近く通った画塾を辞し、自由な制作を試み始めた24歳頃に描かれました。

砂糖壺に反射する4つの小さな白い四角は窓の光でしょうか。薄暗い部屋の様子からは、自らの芸術を生み出そうと模索する画学生の生活がうかがえるようです。

安井曽太郎 《薔薇》

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安井曽太郎 
薔薇
1931(昭和6)年 油彩・カンヴァス 60.5×48.8cm

白い花瓶に生けられた薔薇が力強く描かれています。この白い花瓶は関東大震災の直後、妻の実家の焼け跡から見つかったと言われています。安井は本作について、「白色がきれいだった。その時分僕は白色を好んだ。しぜんその時代の作品に白色調のものが多く、この絵もその一つであった」と述べています。

安井曽太郎 《十和田湖》

06安井曽太郎-十和田湖-1932m

動画による作品解説

安井曽太郎 
十和田湖
1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス 63.8×79.5cm

1932(昭和7)年7月、安井は国立公園協会の依頼により十和田湖を訪れました。「この邊は7月になっていてもまだ寒い位で、緑も新緑の様な美しさであった」とその印象を述べています。風になびく青々とした木々と紫にかすむ遠くの山の対比は、初夏の清々しい大気を感じさせるかのようです。湖畔にあふれる豊かな自然を勢いよく捉えた画面からは、安井独特のリアリズムが感じられます。それはまるで見るものに、新緑の十和田湖を吹き抜ける風を追体験させるかのようです。

安井曽太郎 《銀化せる鯛》

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安井曽太郎 
銀化せる鯛
1953(昭和28)年 油彩・カンヴァス 65.0×54.0cm

銀色の鯛が真上から堂々とした構図でとらえられています。安井はお正月に知人からもらったこの新鮮な鯛を、別の角度から鮮やかな色彩で描いています。その後、再びこの鯛を描き始めた安井は、5月までアトリエに置き続けました。はじめ赤々としていた鯛は、腐敗してすっかり「干物」になっていたといいます。安井はそのときのことを次のように述べています。「(略)油繪で鯛ははじめてだつたので、仲々豫定通りに進行せず、一日一日とのびて行き、とうとう一月以上かゝり、モデルは干物になつてしまつた。干物になつた鯛は亦美しかつた。立派な銀の彫刻の樣にも見えた」。安井は描き終わった鯛を「何んだか可哀想の樣な氣がし」、家族とともにお皿ごと山の中に埋葬したといいます。

安井曽太郎 《緑の風景》

08安井曽太郎-緑の風景-1955m

安井曽太郎 
緑の風景
1955(昭和30)年 油彩・カンヴァス 32.0×40.0cm

1949(昭和24)年春、安井曽太郎は神奈川県湯河原町に移り住み、庭先に見える城山を繰り返し描きました。安井はこの風景を青年時代のフランス留学で多大な感銘を受けたセザンヌを重ね見たようです。安井自身、次のように述べています。「湯河原の新畫室からは、僕の好きな山がすこしばかり見える。その山の形は、ブリジストン美術館にあるセザンヌのサント・ビクトワール山に一寸似ている。仲々いい山である」(『文藝春秋』昭和30年6月號、1955年)。

晩年の安井は、自らが魅了された城山を幾つも描きました。本作は緑美しい季節に描かれた作品です。大胆な色面と太い輪郭線など「安井様式」とも呼ばれる自らのスタイルによって、その風景がシンプルに力強く描き出されています。

安井曽太郎 《秋の城山(下絵)》

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安井曽太郎 
秋の城山(下絵)
1955(昭和30)年 色鉛筆・紙(パネル張り)25.3×35.4cm

湯河原の自宅兼アトリエから城山を望む《緑の風景》を描いた同年12月初め、安井は風邪をこじらせ気管支性肺炎を患いました。しかし、自らが会長を務める日本美術家連盟の「年末たすけあい展」に出品するため、体調不良を押して《秋の城山》(1955年、京都国立近代美術館蔵)の制作にあたります。それがたたって数日後の12月14日には帰らぬ人となりました。山々が黄に色づいた《秋の城山(下絵)》(1955年)は、絶筆制作の際に手掛けられたものと考えられます。

須田国太郎 《ハッカ》

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須田国太郎
ハッカ
1922(大正11)年 油彩・カンヴァス 38.0×49.0mc

1922(大正11)年8月、須田はスペイン北東部アラゴン州のハカ(Jaca)を訪れました。8月4日の日記には「七時半ハッカへ」、途中「一瞬も目を離せぬ絶景」とあり、ハカは「小さいが西班牙としてはいい部に属する」とも記されています。マドリードを拠点にスペイン各地を巡った須田にとって、この町は魅力的な場所の一つとなったようです。

ハカはロマネスク時代の遺跡が残る町で、中世にサンティアゴ巡礼路の起点として定められました。本作には、街の南にそびえるオロル山とその裾野の荒野が描かれています。画面右下に描かれた建物や抑制された色調は、明暗表現を原理的に探求したキュビスムの絵画を連想させます。しかし、本作では劇的な明暗と色彩やマティエールを対比させて空間を生み出す須田の手法を垣間見ることができます。

須田国太郎 《高貴寺遠望》

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須田国太郎
高貴寺遠望
1933-34(昭和8-9)年頃 油彩・カンヴァス 41.0×53.0cm

1925(大正14)年から8年間、講師として和歌山高等商業学校に通勤した須田国太郎は、その車窓からしばしば葛城山の山並みを眺めていました。須田はその山並みにスペイン風景を重ね見たのかもしれません。「南山城山河内の木津川より伊製は一寸西班牙のカスチリヤの山中を思わせるものがある」と日記に記しています。特に葛城山は後年まで多く描かれ、1933(昭和8)年頃には数多く描かれています。山並みはカンヴァスの矩形にあわせるようにデフォルメされ、平坦な構図にされることで、かえって深い色調による奥行を生み出そうとするかのようです。

須田国太郎 《烈日下の鳳凰堂(平等院)》

12須田国太郎-烈日下の鳳凰堂(平等院)-1936m

須田国太郎
烈日下の鳳凰堂(平等院)
1936(昭和11)年 油彩・カンヴァス 52.0×64.0cm

ある暑い夏の日、須田は京都の雷雨を避けて、宇治へ制作に出かけました。本作はそのときの取材にもとづく作品です。平等院鳳凰堂の中堂が南側廊下のやや高所、現在の六角堂辺りから描かれています。鳳凰堂は夏の烈しい日に晒され、屋根や地面が白く輝くことで、かえって暗い堂内の涼やかな空気との対比が浮かび上がってくるかのようです。

須田国太郎 《鳥と花》

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須田国太郎
鳥と花
1942(昭和17)年頃 油彩・カンヴァス 37.0×45.0cm

須田は、「果たして自己の表現様式を油絵に求めなければならないだけの必然性をもったか」と常に問いながら油彩画の制作を行なっていました。西洋の古典芸術への探求を深く進めつつも、東洋の芸術を意識した須田の制作は、結果として東洋と西洋の枠を脱した独自の絵画を実現させたといえます。

本作では薄く溶いた油絵具を塗り重ねるヴェネツィア派のような深い諧調をたたえた描写により、重厚ながら透明感のある色彩を放っていいます。また、遠近法を捨て去った東洋的な奥行との組み合わせが、須田独特の花鳥画の世界を作り上げています。

須田国太郎 《八幡平(焼山)》

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須田国太郎
八幡平(焼山)
1954(昭和29)年 油彩・カンヴァス 80.0×65.0cm

1954(昭和29)年7月、須田は全日本観光連盟の依頼を受けて、岩手・秋田県にまたがる八幡平へ足を運びました。須田は盛岡から電車、バスを乗り継ぎ登山、雪渓を渡り八幡平に辿り着きます。当初は「どうもこの辺より八幡平を代表する場所なき如し 頗る平凡ながら着手する」(7月16日付日記)と記しています。しかし、翌々日に峠に出て、焼山を見渡す風景を目の当たりにするとその眺めに魅了されます。「毛せん峠に出る 実に美わしい 両側の山並は美事也(略)しゃくなげの白花さきみだれる 焼山にかかる」(7月18日付日記)。その後、京都に戻った須田は、祇園祭にも行かず再びこの作品に取り組みました。深い緑の中に白いシャクナゲが咲き誇り、遠くには雲の湧く焼山があらわれる本作は、東北の緑深い夏山の偉容を見事にあらわしています。

須田国太郎 《下田》

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須田国太郎
下田
1956(昭和31)年頃 コンテ・紙 27.0×36.5cm

1954(昭和29)年6月、伊豆風景を描くために招かれた須田国太郎は、一週間の写生旅行をしました。韮山、古奈、下田、石廊崎、松崎、三島などに立ち寄り、各所でスケッチをしながら伊豆を廻ったようです。日記には、「バスで下田へ向かう 割合平凡 天城山横断は流石によし 市中あるく なまこ壁眼につく ここでかくつもりにする」と記されています。

また、数年後には下田港から武山(寝姿山)を望むスケッチ《下田》を描いています。前景に堤防が見え、なまこ壁が並ぶ街の手前には多くの船がひしめいており、当時造船業で栄えた下田の賑わいが垣間見えます。ここでは手前にみえる船よりも、遠景にある2階建てのなまこ壁の倉庫をつぶさに描いており、旅行中須田がよく眼についたというなまこ壁への関心があらわれています。

岸田劉生 《麗子微笑像》

16岸田劉生-麗子微笑像-1921m

岸田劉生
麗子微笑像
1921(大正10)年 水彩・紙 41.8×34.0cm

赤と黄色が鮮やかな絞りの着物を着た劉生の娘・麗子が描かれています。頭には中国のかんざしをつけて、神秘的な笑みを湛えるようすには、どこか不思議な異国情緒が感じられます。

劉生は日記に「今日は麗子が早びけで早く帰つたので、(中略)、その上又麗子の例のメリンスの赤と黄のシボリの美しいきものを着せて頭に先日の支那のかんざしをつけて、笑つてゐる半身像をはじめて、筆をおく」(1921年9月30日)と記しています。メリンスとはメリノ羊の毛で作った布で、細かな染付ができる数少ない毛織物として重宝されていました。劉生はこの着物を着た麗子をしばしば描きましたが、本作では絞り染め特有の布にできる凹凸を水彩画で表現するため、色の濃淡に注意を払っているようすがうかがえます。

【没後90年記念 岸田劉生展】に出品
東京ステーションギャラリーの『没後90年記念 岸田劉生展』(8/31~10/20)に出品しました。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

 

岸田劉生 《静物》

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岸田劉生
静物
1921(大正10)年 油彩・カンヴァス 38.0×45.5cm

机の上に4つの果物と一つの器が置かれています。それらのモティーフはまるで人物が佇むかのように不思議な存在感を漂わせています。劉生自らのある静物画について次のような詩を残しています。「君は其處に丁度人のない海岸の砂原に/生れて間もない赤子が二人、默つて靜かに遊んでゐる姿を思はないか/その靜かさ美しさを思はないか/この二つの赤子の運命を思はないか」。一見、机の上に無造作に並べられた本作のモティーフにも、劉生が見出した「実在の神秘」が隠されているかのようです。

牛島憲之 《雨明かる》

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牛島憲之
雨明かる
1982(昭和57)年 油彩・カンヴァス 45.5×91.0cm

伊豆・下田は牛島がよく訪れた土地の一つです。この作品は下田の白浜にある板戸港での写生をもとに制作されました。水平線が曖昧な画面には淡い光があふれ、穏やかな自然とそこに生きる人間の営みが、温和な色彩で描かれています。日が差し込む雨上がりの海にはゆったりと小船が浮かび、堤防や岩肌は静かに輝きを放ちます。画面中央の堤防には、釣人たちが座って海面に糸を垂らしています。その中に一人だけ、海を眺めるような人物が佇んでいます。牛島はたびたび作品に一種の自画像ともいえる点景人物を描き込みました。ここでも自身を投影しているのでしょうか。この人物の存在は幻想的な自然描写と相まって、見るものを牛島独自の絵画世界へとひきこむかのようです。

牛島の作品はじっくりと取り組んだ写生をもとに、アトリエで時間をかけて再構築されたといいます。そうして生み出された独自の形態と、丹念に塗り込めた淡い色彩からは、静謐な趣が漂います。本作でも、やわらかい光に包まれた港の光景が、簡略化された形態描写によって詩情豊かにあらわされています。